Spin the Black Circle

アナログレコード鑑賞記を中心に、映画や本など興味の向くままに語る、40代オヤジの独り言

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for 3.11

2013.03.10

category : エッセイ

 台風の時期には随分早い嵐が、春の日本を蹂躙していた。わたしはこんなタイミングで行くことになった運の悪さを感じつつ、深夜バスでその市街地へと辿り着いた。早朝に着く予定が、既に正午を過ぎていた。
 そこから電車での移動を考えていたわたしは、駅に集まる人々のざわめきの中、駅の掲示板を見ながらこんな風に感じていた。来るな、ということなのかな。
 そこに表示されていたのは、近隣の路線の全線運休だった。嵐は峠を過ぎつつあったが、まだ風がうなり、運転再開の目途は全くたっていなかった。
 夜には東京に戻らないといけない。ここに留まれる時間は長くない。しかし、やはり少しでも、その場所に立ちたい。わたしは南下できる術を探し、バスが運休していないことを見つけ、飛び乗った。どれだけ近づけるかは、分からない。

 平日の午後、嵐が過ぎ少しずつ晴れ間が見え始めた中、バスは少しずつ南に向けて走ってゆく。車内にはわたしを含め、十人ほどが乗車していた。
 わたしの前には都会で買い物をし、地元へと帰るらしい四人のおばさんが陣取り、とりとめのないおしゃべりをしている。何をどんな値段で買ったか、何を買わなかったか、などなど。買い物の話が終わると、それぞれの家族や親せきの近況などに話が移った。どこのおばさんも同じだな。わたしは車外の風景、どこにでもあるレストランやパチンコ店などが並ぶ路肩の風景を眺めながら、そんなどうでもいいような話を耳の片隅で聴いていた。

 バスに揺られ半時間、そろそろ眺めている左手の向こうには、海岸が広がっている筈。そう考えていると、とたんに路肩に何もない、荒地のような光景が広がり始めた。
 最初はただの荒地かと思った。黒い土がただ広がる、平地かと思った。しかし、その平地には明らかに異質なものが立っていた。ぐにゃりと曲がったガードレール、それだけがその黒々とした土の上を這うように残されていた。それは想像を超える、恐るべき光景だった。
 その光景に目を奪われている中、ふいにおばさんのとりとめのない話が止んだ。バスの中には、エンジンの音だけが響いていた。
 ひとりのおばさんが話し出した、あそこには駅があって、あそこには誰々さんの家があって、そしてあそこの家の人は亡くなって。本当にこの辺は変わってしまった。随分たったけど、まだこの景色を見るのはつらい。おばさんは涙声で語る。
 何もない更地の真ん中で、バスは停車する。元々バス停があった場所のようだ。運転手が降りる人が居ないか確認するが、おばさんのひとりがこう返す「こんな場所で降りる人なんて居ないよ、こんな何もないところで」
 道は海岸近くを離れ、またどこにでもあるような景色に戻る。飲食店、レンタカー店などなど。その日常と非日常のギャップに、一体何がその二つを分けるのか、と不思議に思わずにはいられなかった。

 バスは少し大きな町に着いた。ここから南は線路が流されなかった区間で、数駅だけ電車が動いている。おばさんたちはバスを降り、それぞれの居場所へと散らばってゆく。わたしは運休再開直後の電車に乗り、更に南へと向かう。もうこの辺りに居られる時間は、それ程多くない。
 電車には多くの学生が乗っている。その光景も、どこにでもある風景だ。彼ら、彼女らの会話に耳を傾けるが、あの話は出てこない。複数のグループになったものは、時に高らかに笑いながら、身内にしか分からないような会話をし、そして一人で居るものは、携帯の画面をじっと見つけ、せわしなく指を動かしている。
 ひと駅着くごとに、学生たちが少しずつ降りてゆき、最後の駅に着く頃には、車内は数える程だった。その最後の駅も、どこにでもあるような地方の駅だった。

 駅には行き場を失った特急の車両が止まっていた。ここから北は途中の線路が寸断されており、南に延びる線路を進む選択肢はない。この駅から、もう南には電車は走れない。電車であれ、バスであれ、そしてたとえ徒歩であれ、一般人がこれより南に進む方法はない。

 その駅に辿り着いたのは午後五時、あと一時間しかこの場所には居られない。駅前に掲示している地図を確認する。ここから海岸線に出るには、少なくとも片道三十分はかかりそうだ。わたしはタイムリミット限界まで、海岸線を目指すことにした。
 夕暮れの街、人影もまばら。夕闇が時間切れを感じさせ、焦りながら早足で進む。
 不意に、小さな公園に出た。誰も居ない。寂しげに、遊具が佇んでいる。その風景に、胸が締め付けられるような思いがした。誰も遊ばない公園。これがこの場所のリアルなのだ、と感じた。

 あの日から1年が過ぎていた。何か自分の中で焦りがあった。このままだと、何となくあの出来事は薄れてゆくのだろうな、と。それは義捐金などで埋められるものではなく、かといってボランティアを行うような温かさが自分の中にある訳でもなかった。ただ単純に、その地で何かが起こったことを、自らの中で感じたかった。そして、わたしはその地を目指したが、時間は殆どついえていた。

 公園の傍には、湧水を出す蛇口があった。蛇口の上には、その水が安全であるという検査結果が張り出され、「安全だから飲んで下さい」と手書きで書かれていた。
 わたしはしばらくその場に立ち、そして、蛇口をひねり、その水を飲んだ。それは不安や恐怖を受け入れる、わたしなりのささやかな決意だった。

 公園の向こうには、立派な体育館が建っていた。その入り口には、除染作業の予定が書かれている。少しの恐怖が湧き上がる。この場所にあるもの全てが、遊具、地面、そして蛇口も、汚染されているのだ。その恐怖の中、生きてゆかざるを得ないのが、この街の日常なのだ。
 体育館の先には、仮設住宅があった。その風景は、かつて阪神大震災でよく見た、懐かしいとも言える光景だった。

 ここが限界だった。もう戻らないといけない。わたしは実際の被害のあった土地には立つことが、許されなかった。ただの部外者としてこの地に立つのは、やはり許されないことなのか。わたしは歩みを止め、その先の見えない海岸に思いを馳せた。

 仮設住宅の傍を通り、誰も居ない公園を見ながら、わたしは駅へと戻った。駅に近い場所では、大きな駐車場のある書店がシャッターを下し、静かに佇んでいた。その姿も、わたしに痛みを感じさせるものだった。
 一番南の踏切を渡った。これからの長い時間下りることのない遮断機が、高らかに宙を指している。南には、線路が真っ直ぐに伸びている。この線路の向こうには、放射線を発し続ける、瓦礫で出来た城がそびえ立っているはずだ。その痛みを抱えながら、我々は生き続ける。わたしが生きている間に、南に向かう電車に乗り、その先へと向かう日が来るのだろうか。

 この地を離れるバスに乗りながら、わたしは思っていた。またここに来ようと。その時にあの公園で、遊ぶ子供たちが見られることを願いつつ。


for 311
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破られた約束と、去り行く列車(3/3回)

2011.01.12

category : エッセイ

 ‘The Promise’と”Pet Sounds”は「喪失」をテーマにしつつも、その対象は大きく異なる。’The Promise’は自らの内にあるものの喪失、夢や希望、そして純粋さが失われることについて歌っており、”Pet Sounds”は外的なもの、愛するもの、変わらないでいて欲しいものが失われてしまうこと、その悲しみについて歌われている。しかし、その失うものに対する視点、そこに絵空事のステートメントを挟むことなく、事実やその心境を率直に描写しているその共通する点に感動し、わたしはこれらの曲に私的な経験を重ねることが出来る。
 しかし、これらの曲はなんら解決策を与えてくれない。夢を失っても人生はそのまま続くし、愛を失ってもその後どうすればいいか教えてはくれない。不安や絶望はそのまま放置され、それが聴くものを不安にさせる。でも、人生とは本来そういうものだ。不安や苦しみ、悲しみがあっても、空からヒラヒラと答えが舞ってくる訳ではない。対処法は、自分でもがき苦しみ、探し出すしかない。

 ‘The Promise’はかって夢を持っていた自分、そしていつのまにか夢を捨て去っていた自分を思い出させる。方向性が見えずにさまよっていた自分も、そんな中でもささやかなプライドを捨てきれずに生きていた自分のことも思い出す。あの頃の自分と今の自分では随分変わってしまったと思うのだけど、しかしこの曲を聴くと、あの頃自分が考えていたことが断片的に思い出される。それは過去を懐かしむのとは違う。自分の核の一部を再認識する行為のように感じる。おぼろげに今の自分の中に居ることを感じる、二十歳の頃の不安定な自分の存在を再認識する行為。過去の自分を否定することは出来ない。それはまだ自分の心の中にある。
 “Pet Sounds”はもっと根源的な自分、小さくてまだ無垢だった自分を思い出させる。まだ世界に不安のなかった時代、親に守られ、眠れない夜を過ごすこともなかった自分がかつて居たことを思い出す。そして、変わってゆく世界に戸惑い、恐れ、変わって行かざるを得なかった自分に思いを馳せる。

 わたしも随分年を重ねてしまった。もう衝動的に夢を持つ訳にもいかないし、失うことを感傷的に悲しんでいる余裕もあまりない。しかし、’The Promise’や”Pet Sounds”は、そんな今の自分と、過去の自分とを同線上に繋げてくれる。そして、これらの曲に感動できる自分である限りは、まだ大丈夫だ、と何故か根拠なく思え、今の自分に少し自信を持ち生きてゆくことが出来そうな、そんな気にさせてくれる。

 強くなろうと努力してるけど
 時には自滅しちゃうんだ
 心から、君に約束したからね
 君は僕をまだ、信じてくれている

 泣きたくなるよ
  (’You Still Believe in Me’)
-完-

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破られた約束と、去り行く列車(2/3回)

2011.01.10

category : エッセイ

 “Pet Sounds”は恐れと悲しみの物語だ。愛を失うことを恐れ('God Only Knows’、’Here Today’、’You Still Believe in Me’)、世間から取り残されることを恐れ('I Just Wasn’t Made for There Times’)、自我を失うことを恐れ('Hang On To Your Ego’)、そして美しいものが失われることに嘆き悲しむ('Caroline, No’)。歌詞には常に不安が付き纏い、サウンドはそれを具視化する為、テルミンやパーカッションが居心地の悪い音色を奏で、そしてルートを外すベースは常に不安を呼び起こす。こんな聴き心地の悪いアルバムが、多くの人々の支持を集めているのは不思議だ。
 このアルバムは、「無垢の喪失」をテーマにしたトータルアルバム、とされている。実際にそのことが明確にテーマになっている曲はないのだが、変わってゆくものに対して、かたくなに自分を守ろうとする姿勢、その怯えや悲しみが、自らの無垢さを守ろうとする行為に聴こえるのだろう。この辺りは、頑なに成長を拒否するかのような、ブライアン・ウィルソンのパーソナリティとなぞらせて、聴いている人が多いのも一因かもしれない。
 
 生きるのは辛く、厳しい。人は変わってゆくし、社会も変化する。それに折り合いを付けることが出来なければ、そこに焦りや怯えが生まれ、変わるにつれ消えてゆくものに対して、喪失感が生まれる。そんな折り合えない苦しみ、そして喪失への悲しみ、それがこのアルバムからひしひしと感じられ、胸を打つ。そしてそれは、社会との折り合いを強要させられた、自らの遠い過去を思い起こさせる。

 それは小学校三年生の時だった。わたしは急に視力が悪くなり、眼鏡が必要になった。クラスで眼鏡を掛けている者など居ず、それでわたしはいじめられることとなった。今思えば、いじめはそれほど陰湿なものではなく、からかわれるくらいのものだったように思うが、時には眼鏡を取り上げられるようなひどい時もあった。そのことでわたしは内向的になり、さらにはストレスからか、アトピー性皮膚炎を発症した。今ではメジャーだが、当時はそんなものにかかっている者は誰も居ず、それが更に自分を孤立化させる要因になった。それまで普通の児童だったわたしは、その段階で完全に異端児となった。
 その経験によってわたしは思い知らされた。社会は辛い場所だと。少なくともわたしにとっては、能天気に日々を過ごせる場所ではもうない。社会と関わらないといけないのであれば、その関わり方を早急に会得しなければならない。
 孤立したのは一時的だったと、おぼろげながら記憶している。今思えば、その孤立によって、わたしは自らを変えることを強いられた。具体的には、孤立しているという事実で独立心を強化させられ、自我に埋没することで風雪に耐えることを覚えた。そして、孤立することに自らを馴れさせた。そうなると不思議なもので、いじめは収まり、他者との繋がりがまた出来てくる。しかし、前の自分にはもう戻れない。社会は厳しい、自らに火の粉がかからないよう、常に気を張って生きなければならない。そして、他者とはある程度距離をもって接しなければならない。そんなことを考え、当時は生きていたように思う。その頃のわたしを知っている人に聞くと、随分大人びた子供だったそうだ。そして、そんな大人びた視点は、他の奴らとは違うんだ、という他者を見下す視点へと変化していった。

 “Pet Sounds”は、世間の厳しさを痛感した、あの孤立を思い出させる。間違いなくわたしは、あの時無垢な何かを捨て去った。その葛藤や悲しみ、それをこのアルバムはわたしに思い出させ、時にあの時の辛さが、心の奥を少しチクチクと突く。

 恐らく、わたしのような経験、自分の中の純粋さを失わざるを得ないような状況に陥ったことは、多くの人々にとって通過儀礼として起こることなのだろう。だからこそ、こんな不安と悲しみに満ちたアルバムが、多くの人々の心に響いているのかもしれない。

 アルバムの最終曲’Caroline, No’が、「無垢の喪失」というテーマに一番近い曲だろう。それはこんな歌詞だ。

 君の長い髪はどこに行ってしまったの?
 僕の知っている娘は何処にいるの?
 あんな素敵な長い髪をどうして?
 ああ、キャロライン、駄目だよ

 誰が君をそうしてしまったの?
 君が昔、言ったことを思い出すんだ
 君は変わらないって、でもそれは嘘だった
 ああ、キャロライン、君は

 胸が張り裂けそうだ
 逃げ出して、泣いてしまいたい
 美しいものが失われるのは、辛すぎる
 ああ、キャロライン、どうして?

 君の中に見つける時がまた来るのかもしれない
 あの時僕が愛することができた何かを
 失くしてしまったものを、取り戻せる時が来るのかもしれない
 ああ、キャロライン、駄目だ

 変わらないものなんて何もない。美しいと感じていたものも、自らの手からこぼれ落ちてしまう。それをそういうものだとして、半ば強制的に納得させて、その後を生きてゆくのが人生の処世術としては必要なことだろう。しかし、その過程において、我々は多くのものを失ってしまう。そのどうしようもない事実に、深く嘆き悲しむ声が、この’Caroline, No’からは聴こえてくる。仕方ないことなんだよ、あきらめないといけないんだよ、と声を掛けたくもなるが、恐らくこの主人公には聴こえないだろう。彼はあまりにナイーブすぎて、ただ嘆き悲しむことしか出来ない。その無垢を捨てきれない姿が、どうしようもなく胸を打つ。

 その’Caroline, No’の長い、物憂げなアウトロがフェイドアウトする時、列車が何処からかやってくる。このアルバムの主人公が、その列車が来るのを見ている姿が目に浮かぶ。列車は近づいてきて、主人公の飼っている犬だろうか、二匹の犬が列車に向かって吠える。しかし、列車はただ、目の前を通り過ぎてゆく。去り行く列車に向かって吠える犬、そして主人公はその去り行く列車をただ見届けている。
-続く-

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破られた約束と、去り行く列車(1/3回)

2011.01.09

category : エッセイ

 デビュー・アルバム”Greetings From Asbury Park N.J.”に収められた一曲、’Growin’ Up’でブルース・スプリングスティーンはこんな一節を残している。”I hid in the clouded wrath of the crowd but when they said “Sit down” I stood up. Ooh-ooh growin’ up.” 「俺は曇り顔の群集に身を隠したが、「座れ」の声に立ち上がった。これが成長」彼がこの曲を書いたのは二十歳前後と思われるが、そこには若さゆえの自信、俺は誰にも従わない、といった反抗心、独立心が伺われる。

 そして、それからたった五年の経過を経て、彼はこんなフレーズを曲に込める。

When the promise is broken you go on living, but it steals something from down in your soul.

 「約束が破られても、人生は続く。しかし、魂から何かが奪われてゆく」この曲’The Promise’を書いたのは、彼が二十五歳の頃、アルバム”Born to Run”でとうとう成功を掴んだ直後のことだ。’Growin’ Up’で描かれた反抗心、独立心は、ここには影も形もない。
 この曲では、成功の渦の真っ只中にいる若者とは思えないペシミズムで、敗者となる人生の岐路が淡々と描かれている。友人が堅実に働く中、主人公はふらふらと仕事をし、なけなしの金の為に夢を少しずつ手放してゆく。その行為は「約束が破られた」と表現され、その度に心から大事なもの、夢や希望、純粋に何かを信じること、それらのものを心から奪ってゆく。
 ブルースはこう述べている、「人生に妥協は大切だ。だが、妥協すべきでないことまで妥協してしまうと、自分を見失ってしまう」と。人生に折り合いをつけつつも、自らの信念を持ち、タフに生きる、それを表現したのがアルバム”Darkness on the Edge of Town”だが、’The Promise’は妥協し、そして自らを見失う物語であり、そこに”Darkness”の信念は見られない。最終的にアルバムの選曲から外されたのは、当然の結末だったのかもしれない。
 しかし、その救いのない、夢を切り売りし、心が凍ってゆく物語に、わたしは強く心惹かれてしまう。そして、その物語は、自らの過去を強く想起させる。

 二十歳過ぎのわたしは、夢もなく無目的に生きていた。大学に行き、アルバイトをしていたが、そのどちらとも上手く折り合いをつけることが出来なかった。出来なかった、というよりは、折り合う気がなかった。大学は殆ど行かず、アルバイトも自らの気分次第で働き、連絡もせず欠勤することも度々あった。そして、いつもこう考えていた、俺は他の奴らとは違うんだ、と。そう考える内なる裏づけは何もなかったが、迷いなく、いつもそう考えていた。
 ある日、アルバイトの責任者に呼ばれ、「君はもう来なくていいよ」と宣告された。いつ来るか分からないような奴なので当然なのだが、わたしは不思議にも、そのクビ宣告にひどく狼狽した。仕事の能率の良さには自信があったので、そこで変なプライドもあったのだと思う。そんなことがある筈がない、とさえ思った。責任者に詰め寄り、「改めますので、続けさせてもらえませんか」とさえ言った。クビになるなんて耐えられなかった。しかし、その決定は揺るがなかった。わたしは敗北すべくして、敗北した。
 この経験でわたしはやっと気が付いた。社会が率先して、自らに折り合ってくれることなど、決してないのだと。
 その後、社会に出て、様々な経験をして、わたしは当たり前ながら成長したと思う。しかしそれは立ち上がる成長ではなく、折り合いを身に付ける成長だった。今では勝手に欠勤するようなことはあり得ないし、逆にそういった若者が身近に居れば、恐らく鼻で笑うだろう。甘いな、と。
 しかし時々考える、あの頃の自分は本当にいなくなってしまったのか、と。本当に自分の中から消えてしまったのだろうか、と。何か大きな逆境が起こったとき、あの不安定な自分が再び現れてしまうのではないか、そんな不安が時に頭を過ぎる。そして、あの根拠もなく、俺は違うんだ、と思っていた自分を、何故か時々懐かしく感じたりもする。

 こんな自らの過去を、わたしは’The Promise’を聴いて思い出す。夢を諦める話ではないので関連性はないのだが、敗北の瞬間の物語、という関連で、わたしはこの曲を自らの経験に結び付けてしまう。そして、この曲を聴くたびに、古傷が痛むかの如く、心の奥に少し痛みを感じる。

 そして、’The Promise’という曲は、その二十歳前後に良く聴いていたアルバム、あの犬が吠える中、列車が走り去ってゆくアルバムを、わたしの中に改めて思い起こさせる。
-続く-

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